絶望の時に神に頼る

2018/12/10 (月)

彼の心臓は打ち震え、唇は震え、骨には腐敗が忍び寄り、足は震えた(ハバクク3:16)。 彼は混乱し、怒り、恐怖し、救済を切望していた。 彼は叫んだ。「主よ、いつまで私が助けを求めて叫んでも、あなたは聞いてくださらないのでしょうか」。 (ハバクク1:2)。 旧約聖書の預言者であるハバククは、終わりがないように見える試練の季節を経験しました。 彼は救済を、変化を、神の介入を切望していました。

私も最近、ハバククのような気持ちになりました。

私も最近、ハバククのようになりました。悲しみ、落ち込み、不安の重圧に飲み込まれ、心臓はドキドキ、唇は震え、足は震え、骨まで腐るような感覚に陥ったのです。 私の心と肉体は救いを求めて叫び、絶望の中で、神の御言葉の真理から逸脱する誘惑に駆られたのです。

あなたも私も「収穫の望みがない」(ハバクク3:17)と感じるとき、絶望で神の真理から目をそらすとき、信仰が揺らぐとき、どうしたらいいでしょうか。

信仰によって神に頼る

イエス・キリストを信じる者は皆、信仰の生活に召されています(ガラテヤ2:20)。 信仰は私たちに主を喜び、救い主である神を喜ぶように手招きします(ハブ3:18)。 私たちが試練の中で愛し、喜びを感じるとき、それは真の信仰の究極的な証しです。

絶望の多くの季節に、信仰で喜ぶことはしばしば挑戦的です。

多くの絶望的な季節に、信仰を喜ぶことはしばしば困難です。私たちが霊的に乾き、本来の祈りができないとき、私たちは聖霊を通して神に頼ることができます。 御父はイエスの名によって私たちに聖霊を送られ、言葉にできないほどの深いうめきをもって私たちのために執り成し、弱い私たちを助けてくださいます(ローマ8:26)。 私たちは、試練の中にも外にも、この方を頼りにして、私たちを有罪にし、導き、助け、慰めることができます(ヨハネ14:26;イザヤ11:2;ヨハネ16:7:15)。 御霊は私たちに自由を与え(2コリント3:17)、希望にあふれることを可能にしてくださいます(ローマ15:13)。

2. 神に対して正直であること

ハバククは自分の状況について否定的ではありませんでした。 父なる神様のご性質を知ることによって、彼は正直な祈りに励みました。 彼は情熱的に、正直に自分自身を表現し、”なぜあなたは黙っているのですか “と尋ねました。 (1:13)、”なぜ、あなたは間違いを許すのですか”。 (1:3). 救い主イエスは地上の歩みで何度もこの模範を示し、神に一晩中祈り続けたと記録されています(ルカ6:12)。 またマタイ26章では、キリストが自分の境遇を正直に語り、苦しみの杯を自分から取り除いてくださるよう父に三度お願いしています(39節、42節、44節)。

私たちは主イエス・キリストによって神との平和を得、信仰によって義とされました(ローマ人への手紙5章1節)。 ですから、私たちは素直な祈りで、信仰に満ちた心で自由に神に近づくことができます。 謙虚な祈りで神に近づき、求めることによって、私たちは天の報いを受けます(ヘブル11:6)。 また、天の父は私たちの深い思いを知っておられるので(詩篇139:4)、正直に父とコミュニケーションをとることは私たちの霊的利益につながります。

3.神の恵みに頼る

私たちは宇宙の創造主から、必要な時に憐れみを見出すために、恵みの座に近づくようにと温かい招待を受けています(ヘブル4:16)。 信仰によって、私たちは神が私たちの質問や叫びに応じる義務がないことを認めますが、キリストを通して私たちへの神の義の恵みの贈り物に頼ります(ローマ3:24)。

ヤコブは私たちを励ましています:

しかし、彼はもっと恵みを与えるのです。 ですから、『神は高ぶる者に反対されるが、へりくだる者には恵みをお与えになる』と書いてあります。 それゆえ、あなたがたは神に服従しなさい。 悪魔に抵抗しなさい、そうすれば彼はあなたから逃げて行く。 そうすれば、神はあなたがたに近づいてこられる。 手を清めよ、罪人たちよ。心を清めよ、二心ある者たちよ。 哀れみ、嘆き、泣け。 あなたの笑いを嘆きに変え、あなたの喜びを暗黒に変えよ。 そうすれば、主はあなたがたを高くしてくださるでしょう。 (ヤコブ4:6-10)

4. 4.キリストにおける神の力に頼る

試練に直面したら、御子イエスを通して示された神の力と愛を思い出してください(ヨハネ3:16)。 キリストは罪のない人生を送るという使命を示し、果たしましたが(1ペテロ2:22)、救いをも望み(ルカ22:42)、父の沈黙を感じたことがわかります(マタイ27:46)。 キリストはその従順と痛みを伴う苦しみを通して、その完全な犠牲によって私たちの負債を帳消しにされました。 驚くべき真理は、痛みと死はイエス・キリストにとって終わりではなく、あなたにとっても終わりではないということです。

私たちは、私たちの弱さの中で完成され、私たちの上にあるキリストの力に頼ることができます(2コリント12:9)。 キリストの力は、私たちがキリストの計画に従うとき、私たちの弱さを通してより明確に示すことができます。 キリストは、私たちが自分の力でできることよりも、さらに大きなことを成し遂げようとし、また、そのことができる方です。

神の完璧なタイミングに信頼する

主はハバククやイエスの祈りを無視されたわけではなく、私たちの祈りも無視されたわけではないことを覚えていてください。 主は、ハバククやイエスの祈りを無視されたわけではなく、私たちの祈りも無視されることはありません。主の沈黙は、配慮の欠如と同じではなく、主を愛する人々のためにすべてが共に働くように、舞台裏で働かれます(ローマ8:28)。 信仰によって、私たちはそのタイミングを信頼しなければなりません。 神はハバククの訴えに答えて、「長引くようでも、それを待ちなさい。必ず来て、遅れることはない」(2:3)と約束しています。

あなたが信仰によって神の力と恵みに頼るとき、「畏敬の念に立ち」(ハバクク3:2)、「全く驚き」(ハバクク1:5)ながら、ハバククとともに確信を持って宣言できるよう祈ります。

いちじくの木が芽吹かず
ぶどうの木にぶどうがなくとも、
オリーブが収穫できず
畑が食物を生まずとも、
小屋に羊
牛小屋に牛がなくとも、
それでも私は主を喜び、
私の救い主なる神に喜びを感じるのです。

主権者である主は私の力であり、
私の足を鹿の足のようにし、
高いところを踏むことができるようにしてくださる。 (ハバクク3:17-19)

主は私の力であり、
私の足を鹿の足のようにして、
高いところを踏ませてくださる。

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